「ロックで男を磨け!イギー・ポップを聴け!」(世良正則)
体重48キロの時。
音楽にはまったきっかけは,中学で始めたフォークギターだった。何を隠そう,小学校以来,音楽の成績は常に5段階の「3」だった。「兄さんと違って,まっ
たく歌心のなかったあんたが,どうしてギターなんて言い出したのかねえ?」と母はよく言っていたが,理由は自分でもよく分からない。ピアノは家にあるには
あったが,習ったことはない。小学生の頃,兄はレッスンに通ったが,「あんたも行く?」と聞かれて,「いやだ」と即答した。母のレッスンについて行ったこ
とがあり,ああゆうかたくるしい雰囲気だけは勘弁して欲しいという気持ちだった。小学校のときの趣味は,「釣り」と「将棋」だった。「大人」の雰囲気を通
り過ぎて,「老人」の世界だった。熊本県八代市の球磨川(くまがわ)の河口には,おもしろい遊び場がたくさんあって,幸せな小学生時代を過ごしたと思う。
「ドドドド」と河に流れ込む下水の出口は,一般家庭から排出される有機物が多く,絶好のポイントだった。僕らは,その場所を「ドドド」と呼び,50円分の
エサを買って,いつもそこに集合していた。クラブ活動は,サッカー部に所属していたが,しょっちゅうさぼって「ドドド」に釣りに行っていた。サッカーは中
学校でも続けた。チームは市で2番目に弱く,中3の夏(中体連)に初戦敗退した。その直後だったと思う。「フォークギターを買ってください」,と親に願い
出た。当時,1980年代の前半,ヤマハの一番安いギターが2万円。エレキギターほど高くなかったが,自分には大金だった。だけど,親はすんなり金を出し
てくれた。自分には目に病気があるので,音楽ぐらいは,という気持ちがあったのだと思う。それまで最も高価な買い物は,お年玉で買ったフナ釣り用カーボン
竿だった自分には,楽器が持つ高尚な雰囲気と,つや出し剤のにおいが,全く新しい世界への入り口を予感させた。自転車で片手運転でギターを抱えて商店街の
楽器屋から帰った時の興奮を今でも覚えている。
さて,買ったは良いがどうしたものか。回りに教えてくれる人は居ない。最初は,教則本だけで勉強した。教則本と言っても,五線譜ではなく,6本線(=ギ
ターの弦の数)のタブ符というのがあった。五線譜はいまだに読めない。しかし,Fのコードなどは,「なんやこら??指が何本あったら押さえられるんや
ろ?」と面食らった。「ああ,指を寝せて押さえれば,全部一変に押さえたことになるんか」という感じの独学だったが,指に弦の痕がつくまで練習した。さい
わい同学年に,上手な友人(Mくん)がいた。部活もクラスも違い,それほど親しくしていなかったが,いつのまにやら部屋に入り浸るようになった。
ともに歳上の兄姉がいた関係で,松山千春,長渕剛,さだまさしなど,当時でも既に古めの曲をよく練習した。「赤ちょうちん」,「神田川」の世界だった。
3フィンガー・ピッキングをマスターしてからは,どんどん上達した。初めて半年も経たないうちに,秋の文化祭で,音楽室を借り切って,学生の自分たちだけ
でフォークのライブを企画することになったから驚きである。内気で内向的な性格なのに,音楽のことではいきなり陽気で大胆になる変な性格は,このころから
のようだ。友人と2人でツイン・ギター&ボーカルに,「ベースも付けようぜい!」ということになり,急遽,当時ロックをやっていた強面の仲間(かわじょう
氏)を引きずり込み,3人編成になった。学校の昼休みにも音楽のクラシック・ギターを使用して,練習は毎日やった。夏には,球磨川が見える友人の家の部屋
で練習し,ベースのKJ氏が聞き役だった。KJ氏は,僕らの歌に,あれこれ注文を付けた。「声が小さい」,「音がはずれた」とか,「まだ恥ずかしがっと
る」など,それこそ遠慮無い物言いだったが,「客観的な意見は大事」と,大人の謙虚さへちょっと背伸びをした感じだった。最後には,人前で歌うことも恥ず
かしくなくなり,人をつかまえて歌を聴かせるようにまでなった。思春期の自意識の「壁」を突破して,自分が成長できた気がした。
文化祭
の日が近づいた。7月にギターを始めて,文化祭が11月だったので,上達は早い方だ。文化祭の準備で一番苦労したのは機材だった。狭い音楽室だったが,音
を増幅しなくていけない。当時,1982年で,円高前だから,今ほど機材は安くなかった。選んだ機材は,「ラジカセ」3台で,しかも借り物だった。フォー
クギターには,モーリスから売られていたピックアップマイク(当時2000円ほど)を,ストラップ・フックにドリルで穴を空けて埋め込んだ。これは良い音
がした。シールド(ケーブル)は,エレキギター用で,ラジカセ用の2ミリ・ジャックへの変換ピンを使っていた。音量を最大限に上げて使用したので,たぶん
すぐに壊れてしまったことと思う。誰から借りたかは忘れたが,すまないことをしたと思う。ともあれ,坊主頭の中学生3人のフォーク演奏会は無事,行われる
ことになった。当日は,緊張したに違いないが,ほとんど覚えていない。担任の先生も来てくれていた。人前で歌うとはなんと気持ちの良いことであろう。しか
も,予定を変更して,2回も演奏した。妙なものだ。この時の様子は,卒業アルバムにひっそりと残っている。坊主頭3人組の,なかなか笑える写真がある。
当時のラジカセはこんな感じ。これがアンプ代わり。
高校に入ったが,「文武両道!」と,サッカー部は続けた。ただ高校の勉強は予想以上
にきつく,部活から帰って勉強を済ますと,ギターをひく時間が無くなってしまい,ギターを抱えてウトウトすることも多かった。でも音楽はよく聴いていた。
音源は,今のようにCD全盛の時代ではない。FM雑誌を買っては,ラジオの放送時間をこまめにチェックし,テープに録音した。この作業はエアーチェックと
呼ばれていた。1984年頃のことだ。シンディ・ローパーなどのポップスに加えて,Policeの「見つめていたい」なども流行していた。U2は,高校の
同じクラスの友達が,「これって何回もダビングして録音しとるらしかぞ。ロッキン・オンの渋谷陽一が推薦しとったぞ。」と言って「焔(ほのお) The
Unforgettable
Fire」を聞かせてくれたのが始まり。オーバー・タビングではなく,デジタル・ディレイのサウンドだが,そんなことは知らなかった。
Police スティングは右。いわゆるホワイト・レゲエ。
U2 焔(ほのお)
当然,エレキが欲しくなった。しかし,お金が無い。この頃の小遣いは,月に3000円。レコード一枚(2800円)ですっとぶ金額だった。しかも,親もエ
レキとなるとすんなりは買ってくれない。ずっとチマチマした貯金をし,ようやく1年の秋の修学旅行の小遣い(全部で3万円ほど)をつぎ込んで,フェンダー
のストラト(5万5千円)を買った。ちょうどこの頃,九州地方限定のCMには,シーナ&ロケッツの鮎川誠が出ていて,「博多んもんは横道もん,青竹割って
へこにかく」(意味:博多の人は横着者。青竹をへこ(博多山傘のふんどし)にするぐらい,威勢が良い。)と思いっきりナマった博多弁に,ギュイーンという
ギターサウンド(レスポール)を響かせていた。そのCMの音に憧れていたので,本当は,レスポールを買うべきだったことは後で分かった。
鮎川誠。博多のロッカーのカリスマ的存在。しぶいギターがめちゃくちゃうまい。名古屋ジャス・シーンで言うケイコ・リーにも負けない。最近では,ポカリスエットのCMで,
福山雅治(長崎出身)とギターを弾いてたりする。「ちゅらさん」にも沖縄のライブハウスの店長役で出演していた。自分にとっては,何より皮ジャンを着た
「君子」というイメージだ。しかも九大の先輩にあたる(農学部らしい)。昔NHKか何かで茶道の文化人と革ジャン姿で対座しつつ,気配りと礼儀正しさと知
性にあふれていた物腰が印象的だった。ちなみに,つい最近も,DVDを見つけて買ってしまった。
こうなると,ともかくバンドが組みたくなった。高校2年生の夏に,サッカー部を辞めて本格的にバンドを始めた。サッカー部の顧問の先生が担任
だったが,「音楽がしたいです」と相談したら,「よし!」と理解して認めて下さった。今でもこの先生の器の大きさには感謝している。メンバーは部活のヤン
スー先輩とその友人たちで,年上ばかり。Who,
Pistols, Jam
など,80年代初頭に噴出したイギリス・ビート系やパンクをたくさん教えてらった。なにより,練習場がゴキゲンだった。ドラムの先輩のお母様が働いておら
れた港の小さな町工場の空き部屋だった。練習場の隣には汲み取り式のトイレがあり,夏はかなり臭かったのを今でも懐かしく思い出す。練習場の向こうでは町
工場の機械がガシャガシャ音をたてており,壁がくずれて光が差し込んだりしていた。そんな場所だった。そしてそこは,貧乏だがヤル気だけのある高校生に,
これほどふさわしい所は無いほどの,神聖な場所だった。
ここでも困ったのは,またもや機材だった。ギターアンプもまだ持っていなかっ
た。自宅ではちょっと大きめのストレオのアンプに直接シールドを突っ込んで練習していた。おかげで音はざらざら。でも毎回,練習の時には,ヤンスー先輩が
原付バイクにのせて,誰かのものを借りてきてくれた。面倒見の良い人格者の先輩で,いろいろなことを教えてもらった。自分は,この時,エフェクターさえも
持っていなかった。ディストーションが当時1万円。これは半ば親をだますようにして手に入れた。制服のズボン代がエフェクターに化けました。これがなくて
は,音がパキパキで,まったくロックにならなかったので,どうしても必要でした。ディストーションのおかげで,歪んだ音が出ると,それだけでロッカーにな
れた気がした。
The Jam の In the
City
。左は,ポール・ウェラー(後にスタイル・カウンシル)。
部活をやめてバンドを始めると,人間関係も大きく変化した。高二の文
化祭の準備でクラスで映画を作成しようということになった。映画の中でエレキギターを弾くだけのチョイ役セリフなし,という配役で,気前よく了承した。し
かし,主人公の男子が部活の忙しさを理由に降板したために,「あんた部活やってないでしょが,代役に決まりたい」と,いつのまにか代役で主人公にさせられ
てしまった。この女子連中のうやむやな「なし崩し」作戦には閉口した。自分に,芝居など出来るはずがない。最悪だったのは,ぎこちない演技に対する,ギャ
ラリーの女子連中の失笑。緊張するからそっとしておいてくれればよいものを,そうジロジロ人のことを見れる神経が分からない。かと言って,誰か一人に事務
的要件で話しかけても,くすくすと笑って後ろに下がって話しも通じない。女子30人文系クラスの暴力に少年の心はいたく傷ついた。ただし,この映画の撮影
という名目で,学校に初めてギターをもってこれた。これは,もう最高にうれしかった。サッカー部を辞めたことに,多少の後ろめたさがあったので,「俺は音
楽をやっているんだ」と胸を張れた気がした。早朝にブラバンの部室でサザンの「いとしのエリー」を収録した。演技も一応,すべて撮影を終えた。この時の映
像は,教室で公開されたようだが,恥ずかしくて自分では一度も見ていない。しかし,今思えば,青春時代の自分の動く映像は非常に貴重ではないか。しかも一
応,主役である。今,誰が持っているのだろう。
高校二年生の文化祭の本命は,先輩とのビート系バンドで体育館のステージにでることだっ
た。直前には,本当によく練習した。先輩の家にも上げてもらい,いろいろ良くしてもらった。いよいよ当日になった。体育館がステージ。曲目は,ピストルズ
と,フー,ジャムなどをやった。先輩からは,ピート・タウンゼントのように,腕をブンンブン振り回して弾けよ,とにかく動きまくれ,と言われていた。あと
で写真を見ると棒立ちだったようだ。演奏は,緊張してほとんど覚えていない。持ち前の集中力で,なんとかクリアしたのだろう。ステージの下で,友人がたく
さん「ニヤニヤ」していたことは覚えている。きわめつけは,演奏の最後にメンバーで一斉にジャンプをすることになっていたこと。パンクやモッズ系のキメの
パフォーマンスだった。しかし,演奏に精一杯で,頑張ってジャンプしたが,ほとんど足が上がらなかった。今思えば,誰もそのことを話題にしなかった。終わ
ると,校舎の屋上で,記念撮影をした。今見るとちょっと恥ずかしい,イキがった写真が何枚か残っている。
モッズと言えば,ベスパが愛車。
それからは,受験勉強とギターが生活の全てになった。文化祭が終わると,音楽を通じてできた友人と,学校の視聴覚室の横の小部屋に機材を持ち込んで,軽音
楽部を立ち上げようと動いて回ったが,これは却下された。2年生の冬には,新メンバーでメタル系のバンドを組んだ。ここでも高校で当時一番上手な友人に出
会ったこともあり,たびたび,ギターを担いで遊びに出かけた。そいつの家は,市の北部の豊かな農業地帯で,ステレオ,レコード,エフェクターまでなんでも
あった。早弾きというものを教えてもらったのもこのころ。やっぱりライブがしたくなった。会場は,近所のゲーセン。それまでゲームをする資金もなく,遠ざ
けていた遊技場だったので,そういう所に出入りすることで,ませた大人になった気がした。ライブ当日は,友人を何人か呼んだが,ボーカルのやつが歌詞を覚
えていなくて散々だった。この頃に出来たのは音楽がらみの友人ばかり。なぜか北部の農業地帯に特にバンド・マンが多く,ミカンの農業倉庫がたまり場兼練習
場だった。
3年生になった。受験勉強も忙しくなったが,ギターはやめたくなかった。というか,やめたら勉強の能率が下がると判断した。今でも正しい判断だったと思
う。秋の文化祭にもちゃんと出ることにした。バンドはツインボーカル,ツインギターという形態になり,歌も練習することになった。この時の練習場は,町で
唯一の有料スタジオだった。機材は,当時としてはかなりのものだった。メンバーは,ブラバンの部長「Aちゃん」がボーカル・ギターで,音楽のセンスがとて
もよかった。それまでほとんど話したことがなかったが,すぐに友人になった。このころまでには,ディストーション,フランジャー,ワウペダルを持ってい
た。ベースの「ARTくん」も音楽センス抜群の人格者で,自宅に呼んでベースラインを耳コピーで確認しあったりしたのは楽しかった。ドラムの「KMちゃ
ん」は,伸長190センチのおおらかなやつだった。受験勉強も大変だったが,文化祭はもっと重要だった。受験勉強に突入する前の儀式のような感覚だった。
本番になった。トリの2番目だったので,結構盛り上がった。ラットのラウンド・アンド・ラウンドを演奏した。観衆の友人が怒濤のようにステージの上まで這
い上ってきて,興奮ではちきれそうになった。頭が熱くなって,1年前の反省とばかりに,ガンガン動きまわって弾いていたら,いきなり音がプッツリと消え
た。気づいたら,なんと自分のシールドが抜けていた。あわてて差し込んだら,ヒューズが飛んで,全ての音が落ちた。体育館全体がしーーんと静まりかえって
しまった。あちゃー。演奏中にシールドの抜き差しは厳禁だったのに知らなかった。急いで復旧して,演奏を再開した。トラブルの後にもかかわらず,結構,気
持ちよくギターを弾けた。Rock
my nights
awayを演奏してマイケル・シェンカーになりきった。たが,残り時間5分というサインが見え,1曲省略して,後はバタバタと演奏して大変なことになっ
た。ドラマーの「かめちゃん」もトラブっていた様子で,バスドラのペダルが吹っ飛んで,フロアタムでバスドラを代用していたとのことだった。ギターの
チューニングもおかしくなっていた。たくさん練習したのに,うまくいかず悔しかった。体育館の裏で,みんなでちょっとだけ悔し泣きをしてしまった。若かっ
た。大学でもまたバンドやろうと心に誓った・・・。
大学に入ってすぐに軽音サークルに入った。博多は音楽がさかんな町
でうれしかった。すぐにメタル系のバンドを組んだが,これは後に間違いと判明した。博多は「日本のリヴァプール」(=ビートルズの出身地)とかで,ビート
ルズのようなビート系ロックをやらなくては売れない。メタル系は「あらら,ヘビメタばい」と白眼視されるというなんとも厳しい音楽風土だった。それでも,
クラスのメンバーで3人も集まった。さすが経済学部は遊び人が多い。このころは,一日中,ギターをいじった。ピックアップを交換したり,アームをフロイト
ローズ風に交換したり,色を塗ったりで,忙しかった。本当は,新品を買いたかったが,金がなかったからだ。この頃の仕送りは7万円で,バイトもすぐには始
めなかったので,食費をうかせて機材を買った。一日,ポテトチップス一袋なんて日もよくあったが,平気だった。体重は,60キロから一気に49キロまで
減った。おかげで,当時流行していた細め(27インチ!)のジーンズがスッポリ入った。ガリガリに痩せたロッカーになり切れた気がしていた。
このころのアパートは,風呂無しトイレ共同の家賃18,000円の狭い部屋で,音をだして毎日毎晩ギターの練習をしていたから,下の階のおばさんから,
何度も苦情をいわれた。怒られた時は,本当に,「済まない」という気になるのだが,ギターを引き出すと,つい夢中になって忘れてしまう。結局は,やりたい
ようにやっていたが,周りの人は随分と我慢してくれていたのだろう。(ちなみに,この頃,ロカビリーバンドのウッドベーシスト,Sくんは,アパートでウッ
ドベースをベンベン練習していたら,階上の夫婦にえらい剣幕で怒鳴り込まれたそうだ。)曲も作った。ブラック・サバスとプログレを混ぜたようなジャンル。
今で言うX(エックス)のような曲を作っていた。ジャズ・コードも取り入れていたようだが,セブンス,ナインスのコードなんて知らなかった。自分でそこそ
こ気にれる曲を10曲ほど作った。
Black Sabbath
の名盤。スウエディッシュ・ポップのカーディガンズもコピー。
このバンドでの最初のライブは,1年生の秋の頃。大学への出席率がめっき
り悪くなるのもこの頃。なにせ,この頃の大学の先生方は,まともに授業などしていなかったし,事務体制も悪かった。ひどい話では,聴講登録したのに,そも
そもが席が無く,通路で立ち見の状態で,声も良く聞こえない。これでは,学生の勉学意欲を阻害するだけではないか,と,サークル棟と友達のエグチ氏のマン
ションに入り浸るようになる。ライブでは,サークル棟の大部屋に,ビール・ケースとコンパネ板でステージをセットして皆で設営をした。演奏は非常によくで
きた。今でもテープが残っており,瞬間的には自分でも感心するようなフレーズをアドリブで弾いていたりする。所詮は自己満足の世界なので,それでよしとし
ておこう。このころのエグチ氏の部屋には,カワノ氏,ババ氏がたむろしており,そこに自分が加わった。定番アイテムは,キリン・オレンジとキャメルの煙草
だった。エグチ氏のこたつで,空き瓶と煙草の山の灰皿で,うだうだたむろし,Moder
DollzやBoowyなどを繰り返し聞きながら,雑魚寝していた。
そうこうするある日,父が出張で博多に出て来た。外で食事をした時
に,「こづかいだ」と,いきなり10万円入りの封筒をくれた。「若い時にはなにかと金がいる。自由に使え」と言ってくれた。ありがたかった。この金で即ア
ンプを買った。今思えば,1987年頃のことで,円高で海外の機材がどんどん安くなっていた。50Wのレイニー(ブラック・サバスのトニー・アイオミのブ
ランド,スピーカーはマーシャルと同じセレッション)を買った。部室に置いて,練習でも使った。音は最高だった。とくに低音の輪郭が最高だった。ギターも
レスポールの黒を買った。これも良い音がした。学際が当時の舞台だった。ステージパフォーマンスは,ヘッド・バンキング(=音楽のリズムに合わせて長髪の
頭を上下に振る動き。)が一応のウリだった。学祭には従兄弟が見に来ていて,あとで一言だけ「怖かった」と言っていた。いわゆるヘビメタ君というやつだ。
4トラックのレコーダーでレコーディングまでやったが,このバンドは,ボーカルと個性がかみ合わず,2年生の春に解散した。
それから本格派の友人のバンドに入った。横道坊主や,ハノイ・ロックス+ラモーンズのような,ビート系のやつをやった。懸命にやった。深夜の箱崎キャン
パスの幽霊屋敷のような練習場(今も健在!)は,夏には,床をゴキブリがごそごそ這い回っていた。くわえ煙草を靴で踏み消して,床はゴミだらけ。ベースの
友人は,マーシャルの100Wをローンで買って,大事においていた。みんなで,プロを目指していた。毎晩のように酒も飲んだ。バイトは,音楽チケット事務
所のコンサート設営をやった。大型スピーカーなど重い機材を運んでキツかったが,バイト代は1日で1万円を超えてうれしかった。こういう肉体労働の際は,
甘ったるいジョージアのロング缶にマイルド・セブンの煙草が最高だった。コンサートが始まると最前列のロープ持ちの係もやらされるので,その関係で,泉谷
しげる,レッド・ウオーリアーズ,今井美樹?などもほんの間近でみれた。(今井美樹は,コンサート終了後のバイトだけによる撤収作業の時に,わざわざ挨拶
に来てくれるなど,さわやか系女優の片鱗を見せていた。)「海の中道」の「ロック・サーキット」の特設イベント会場(Fuji
Rockのような感じ)には,ラウドネス,レッド・ウオリアーズや,かけだしのユニコーン,つまり売れる前の奥田民生も3mほど間近にいたことになる。
シャケのギターにさわることが出来たし,K氏は,「音だし」で実際にデカイ会場で試し弾きをした。今になると,なかなか貴重な体験だった。
Ramonesのメンバーは,皆ラモーンさん。 Do you remember Rock'n Roll
Radioは今でも好きな曲だ。
このバンドでは,ライブ・ハウスに何度か出た。ドラム,Be-1な
ど,博多では最も有名なライブハウスだ。ノルマが1バンドで30枚,1枚1,000円だったから,ライブハウスに3万円ほどが入る。こっちは売れなければ
「自腹」という仕組みだった。どこも楽屋が狭く,出演前は,VO5という一番安いヘアスプレーでガチガチに髪を立てて,口紅・ファウンデーションでベタベ
タ化粧した。おかげで(?),いまでも化粧品についての基本的な知識はある。演奏は,今で言う「横道坊主」のような路線だった。(「横道坊主」
は,1986年の九大の学祭にゲスト参加してくれた。)知り合いは人づてで広がったが,今思うとチケットを買ってくれる博愛主義的な友人によって支えられ
ている局所的コミュニティだったかもしれない。それでも,いっぱしのロッカーになりきって演奏していたから,楽しかった。ライブが終わったら,機材を担ぎ
ながら,きまって安い焼鳥屋で打ち上げをした。髪を逆立てて化粧をしたままの異様な集団だった。今思えば,勢いに任せて,各方面でいろいろ迷惑をかけたこ
とだろう。でも,この時代のロッカー達は皆「気っぷ」が良く,音楽については謙虚というエートスがあり,すごい怖そうな奴らにかぎって,皆,明るく礼儀正
しかった。博多のロッカー達とは元来そうしたものだったのかもしれない。優しくて,最高に気の良い連中なのである。ちなみに,俳優の陣内孝則が,博多のバ
ンド「ロッカーズ」のボーカルだったことを,今では何人が知っているだろうか。
「山笠オールナイト」というイベントにも出た。初夏の博多山笠の日に,夜通しでライブを行うというイベントだった。参加は総勢で10バンドほどで,出番
は深夜2時ごろだったので,出演までの時間を博多駅上のビア・ガーデンでつぶした。K氏の強引な誘いのままに調子に乗ってのんだら,ひどいことになった。
悪酔いしてしまったのである。自分は,出演の直前に飲んだソルマックが苦くて,道ばたでもどし,S氏は出演中に楽屋のトイレにもどしにいった。「俺,もう
ダメ〜」と言ったら,温厚なE氏に一喝される始末。顔が真っ青で立っているのがやっとなのに,よく演奏したものだ。したがって,この日の演奏は最悪だっ
た。K氏は後で「だけん,あんまし飲むなって言ったやろ」と相変わらずの無茶ぶりを発揮していた。このような毎日だったが,緊張感とスリルがあって楽し
かった。一度,メンバーでオーディションを受けたことがある。いかにも業界風のヒゲおじさんに,「ギターが2本だけど,その必然性が無いねー,,,おもし
ろくないねー,,」など,散々に言われたことも覚えている。,,,
この時の自分は,何者だったのだろうか。今考えると,そういう生活をしていたエネルギー衝動が信じられない。本当に不思議な瞬間だった。このバンド
も,2年生の秋にやめた。自分の中で,突然,何かがプツンと切れてしまったのである。才能の限界を感じていたので当然な結末であった。「音楽でプロにな
る」という夢が終わった。バンドを中心に回っていた友人関係からも自分だけ距離が出来てしまったことで,メンタルな余波があった。しばらく何もてにつかな
かった。でも,終わった夢にすがりつくのは,なお辛かった。
そして気づくと,消去法のようにして,大学の研究者という道がのこっていた。それにむけて地味な努力を開始する覚悟が自ずとできあがっていった。事実,
その後の学部・大学院の7年間は,学問との格闘で七転八倒することになる。専門的な研究という後戻りのきかない自己投資は,先の見えない闇へと全力疾走す
るようなもの。しかし,ツライ時には,バンドに挫折した苦しみを思い出し,自分を奮い立たせた。この時の経験と挫折があったことで,「二度と折れるわけに
はいかない心」が出来上がったのだと思う。不惑を超えた今,あれで良かったのだ,と思っている。