江里口藤兵衛信常(1548年〜1584年5月4日)




   『信長の野望』より, 江里口信常


 江里口家の代々の祖先ということで,小城(おぎ)市の北部(市長さんも江里口さん)では伝説の武将である。小城に住んでいた小さい頃,5月の節句の鯉のぼりの下で,父から「江里口藤兵衛(とうべい)というスゴい御先祖さんがおったんぞ。そらあ,ものすごく勇気のある武将で,,,,」と聞かされたことを覚えている。父は以後あまりこの話をしないが,鯉のぼりの下で,強い男の子に育って欲しかったのだろうと思う。その時は,「へえ,なんか凄いな〜」という少しの興奮と,当時夢中だった仮面ライダーの立花藤兵衛(喫茶店のマスター役)を連想したことだけを覚えている。以後,思い出すにつれ,地域によくある地元びいきの先祖自慢だと思っていたが,これが結構,すごい人。通称は信常である。「常に信じる」で「のぶつね」とは,これまたかっこ良い。

 江里口信常は,龍造寺氏の家臣であり,龍造寺四天王の一人だ。龍造寺氏は,戦国時代に大友氏とともに九州北部を二分した戦国大名であり,その重臣であるなら,まあ侍大将かひょっとすると家老級と思えばよいだろうか。四天王とは,江里口信常,成松信勝,百武賢兼,円城寺信胤,木下昌直でなぜか5人なのだが,このうち一人を除いてカウントすることが多く,とりあえず4人ということになるらしい。

 信常は,はじめ鍋島信房に仕え、鍋島直茂が養子入り先の千葉家から実家に戻る際に、直茂(後の佐賀藩藩祖)に付けられた12名の家臣のうちの一人と言われる。したがって,江里口氏の旧主は,千葉氏ということになろう。千葉氏の居城は,千葉城跡として今も残る山城であり,小城御山(おぎおんさん)の神社になっていて,小さい頃,父とよく遊びに行った思い出の場所である。一度,『男はつらいよ』のロケにも使用された。小城羊羹の村岡屋の真っ正面(祇園川の反対側)である。

 一族は,江里山の麓に居住していたため、代々江里口氏を称していたらしい。江里山は,小城町の西北部に実際に存在し,その麓には,ずばり江里口という集落もまだ存在している。江里口集落は,字で言えば岩倉であり,僕の実家の清水は松尾で,二つ合わせて岩松小学校区となる。

 江里口信常は,『信長の野望』では,政治力,知略のポイントはまあそこそこだが,武勇がダントツに高い。いわば猪突猛進型の武将である。九州男児の典型でもあり,どこか小細工や計略を極端にキラう小城の人の,実直な性格を代表しているようでもある。

 江里口信常の有名なエピソードが,島原半島の島原市付近での「沖田畷の戦い」である。この戦いは,龍造寺vs島津の総力戦であり,北上する島津軍の九州全土支配を決定つけた戦いである。以後,龍造寺氏は島津氏の配下となるなかで没落し,豊臣秀吉による九州征伐(島津征伐)の中で,臣下筋の鍋島直茂の台頭へとつながった。

 1584年、沖田畷の戦いでは,龍造寺隆信が総大将だったが,龍造寺軍は,ぬかるんだ泥田の中で攻めあぐんでいた。対して島津軍は,龍造寺軍を挑発し,泥田の間の細いあぜ道に誘い込むことに成功し,一気に奇襲をかけて大将の隆信の首級をあげた。この時,「肥前の熊」と言われていた隆信は肥満しており,輿に乗せられなければ動けないほどであったようだ。

 大将が島津軍に討ち取られると、江里口信常は憤激し、しからば島津軍の総大将の首も取ってやろうと意気込み、躍起になって島津軍の総大将・島津家久を探しまわったらしい。 この時,信常は,自軍である龍造寺軍将校の首級を片手に,もとどりを切って顔を隠し,島津軍総大将の家久の旗本近くまで近づくことに成功した。いわば島津軍のフリをして,大将に近づいたというわけだ。

 そして首級を手柄にと近づくやいきなり,主君の仇として,馬上の家久に太刀を浴びせた。一説では,この一太刀は,家久の太ももを切り裂いたが,即座に旗本衆に討ち取られた。その瞬間,かの家久は,「江里口信常、剛の者なり」とその武者ぶりに感嘆して「殺すな,活かしておけ」と言ったが,時すでに遅かったとか。残念がった家久は,「信常に一族がいれば召し抱えたい」と言ってその死を惜しんだらしい。

 弱兵が多いとされる佐賀士族のなかで,戦国最強士族の薩摩軍総大将から「剛の者よ」と言われたご先祖さんは,なんと勇猛であったことだろう!! ということで,ひょっとしたら小城の江里口一族は,ごっそり佐賀を離れて,鹿児島県民になっていたかもしれん。下戸の多い血筋だから,薩摩の芋焼酎で苦労せずに済んで,やっぱりよかったかも。